江戸時代初期の川崎

川崎 六郷渡舟

江戸時代初期の川崎

現在の川崎市内に残る中原街道の面影を辿りながら、江戸時代初期に小杉村が宿場町としていかに賑わい、徳川将軍家との関わりがあったのかを解説しています。

中原街道

南武線武蔵小杉駅から、宮内、そして溝の口へと続く市営バスの路線があります。そのバスに揺られ、小杉陣屋町を通り過ぎ、西明寺前という停留所で降り立つと、そこにはまるで時が止まったかのような、懐かしい風景が広がっています。直角に折れ曲がった細い道、今も大切に残る軒の深いお家、「陣屋町」や「御殿町」といった古風な地名からは、かつてこの道が賑やかな街道であった頃の面影が、じんわりと伝わってくるようです。

江戸時代の初め、川崎宿を通る東海道はまだ整備されていませんでした。そのため、江戸へと向かう人々は、東海道の平塚宿から中原村、用田、中山といった場所を通り、小杉村からは丸子の渡し船を利用して多摩川を渡る、この「中原街道」を主要なルートとしていたのです。

小杉御殿

その小杉村には、徳川家康公が宿舎を設けられました。これは、遠い故郷から江戸へやってきた地方の大名や家臣たちが、旅の疲れを癒すための大切な場所となりました。はるばる遠い地からやってきた大名や武士たちは、ここでゆっくりと休息を取り、英気を養ってから、いよいよ多摩川を渡り、江戸へと向かったのです。

また、家康公をはじめ、二代将軍秀忠公、三代将軍家光公といった将軍たちも、「お鷹狩り」と称して、しばしばこの地を訪れられました。その目的は、この地方の様子を詳しく調べるとともに、ご自身もここで休息を取ることでした。将軍がお休みになる場所ということで、いつしかこの宿舎は、誰からともなく「小杉御殿」と呼ばれるようになったそうです。

その頃、小杉御殿は現在の西明寺の東側一帯の広大な地域を占めておりました。天下の将軍をお迎えするにふさわしく、堂々とした立派な建物が建ち並んでいました。

にぎやかな小杉宿

このように、江戸へ行き来する大名や武士、商人、そして旅芸人など、さまざまな人々が行き交うようになり、小杉村は大変な賑わいを見せるようになりました。街道沿いには、一膳めし屋さん(今でいう食堂のようなお店)や、旅人が夜を明かすための旅籠(旅館)などが軒を連ね、活気に満ち溢れていたそうです。この地域の人々は、それまで目にすることのなかった各地の武士たちを相手に、活発な商売を始め、大いに潤いました。こうして、江戸時代の初期、小杉村は川崎の中で最も賑やかな場所となったのです。

このような、武士たちへの細やかな心遣いも、全国の大名たちをしっかりと掌握しようとした家康公の深慮遠謀によるものだったのでしょう。些細な点にも抜け目なく気を配る政治姿勢は、まさに徳川幕府の重要な方針であり、長く続く江戸幕府の強固な土台となったのです。しかしながら、その後、川崎を通る東海道が整備されると、この中原街道や小杉村は、次第にその賑わいを失っていったということです。

六郷の大橋

豊臣秀吉から関東八州を与えられ、江戸に入府した徳川家康は、まず江戸周辺の道路と水路の整備に着手しました。文禄年間に隅田川に千住大橋を架け、北方への道を開きました。慶長5年には六郷川の鎌田と川崎の間に木造の大橋を架け、品川、蒲田、川崎、神奈川を結ぶ海岸沿いの道筋を江戸への主要な街道としました。この大橋は1688年(元禄元年)までの88年間、川崎領の人々に利用されていました。

川崎宿ができる

川崎宿が開設されたのは、1623年(元和9年)のことです。東海道五十三次として知られていますが、当初、川崎には宿場は設けられていませんでした。品川から八里(約32km)先の神奈川宿へと続いていたのです。しかし、品川から多摩川を渡って神奈川まで至る道のりは険しく、人馬ともに疲弊していました。そこで、三代将軍徳川家光の時代に、中間に位置する川崎に宿場が置かれることになりました。当時の宿場は、現在の京浜第一国道沿い、六郷橋のたもとから、バス通りの本町、砂子、元木町を経て川崎小学校付近まで広がっていました。現在、その一帯は川崎の中心街として高層ビルが立ち並び、当時の面影は全くありません。

そもそも宿場は、各地から人々が集まり、様々な商店が軒を連ねて賑わいを見せ、地域の発展に貢献するものでした。

宿場は迷惑

しかしながら、東海道の宿場では、幕府の命令により、常に36頭の馬と36人の人足(人夫)を用意しておく必要がありました。これには、地元の百姓たちが交代で従事しました。特に、大規模な大名行列などで多くの人々が通行する際には、さらに人手を増強しなければなりませんでした。これは地元にとって、大きな負担となりました。

川崎宿のように、久根崎、新宿、砂子、小土呂という四つの小さな農村が寄り集まってできた宿場であり、しかも人々が単に通り過ぎるだけの場所であったため、その苦労は一層大きなものでした。何度も幕府に川崎宿の廃止を願い出ましたが、聞き入れられることはありませんでした。宿場町の人夫役のために自身の仕事ができず、生活が困窮し、逃亡する者もいました。

このように、川崎宿には、陰ながら苦しんでいる人々が大勢いたのです。

小泉次大夫の苦心

江戸に入った家康は、自領である関東平野の水田を増やしたいと考え、役人たちにその事業を命じました。

その一人に小泉次大夫という人物がいました。次大夫は、1589年から1590年(天正17~18年)にかけての洪水で大小の石が堆積した多摩川周辺の荒地に、豊かに実る稲穂を実らせるため、清らかな多摩川の水を引くことを考えました。家康の許可を得た次大夫は、六郷領、川崎領、稲毛領、世田谷領の村役人を集めて協議し、事業の重要性を説き、協力を仰ぎました。村役人とその下の百姓たちの協力なしには、この大事業は到底成し遂げられないからです。そして1599年(慶長4年)、江戸幕府が開かれる以前に、多摩川の水を灌漑して水田を造成する工事に着手しました。

小杉村に陣屋をおく

59歳を迎えていた次大夫は、自ら陣頭指揮を執り、工事を監督しました。稲毛領小杉村に陣屋(現在の事務所)を構え、連日工事現場を奔走しました(小杉御殿の東側にあたり、現在でもその付近は陣屋町と呼ばれています)。

言うまでもなく、現代のような測量機器もブルドーザーもない時代です。工事を指揮する次大夫も、その下で働く農民たちも、現代では想像もできないほどの苦労を強いられました。

用水路は人力で造り上げる川です。川底の高さがわずかでも狂えば、水は意図した通りに流れません。そのため、次大夫は夜になるとかがり火を焚き、土地のわずかな高低差を丁寧に調べ、川下から順に川底の高さを決定していきました。高さが決まると、いよいよ掘削作業です。稲毛領や川崎領から集められた農民たちが、一鍬一鍬土を掘り起こし、それを畚(もっこ)で運びました。中には女性も交じり、献身的に働きました。

二ヶ領用水

こうして、雨の日も風の日も休むことなく作業は続けられました。すでに60歳を超えていた次大夫はすっかり老い込んだものの、その仕事への情熱はますます高まっていきました。工事に動員される農民の顔ぶれは変わっても、その意志はしっかりと受け継がれ、用水路の建設は着実に進められました。

そして、14年にも及ぶ苦労の末、1611年(慶長16年)に用水はついに完成しました。この時、次大夫は73歳になっていました。この用水の完成によって、稲毛領と川崎領のほぼ全域に水田が広がるようになったのです。

この用水は、稲毛領と川崎領の二つの領地を流れていることから、二ヶ領用水と呼ばれるようになりました。その他、次大夫の名を冠して次大夫堀、あるいは女性も多く作業に携わったことから女堀とも呼ばれています。

命をささえる水

こうして完成した二ヶ領用水は、宿河原の取水口から現在も川崎市内を北から南へと流れています。しかし、小杉より南の地域では、住宅街にひっそりと隠れるように流れ、その存在に気づかない人もいるほどです。近年では、生活排水などで水質が悪化し、人々の関心も薄れてしまいました。江戸時代の初期、幕府の役人と私たちの祖先が血のにじむような努力で築き上げた命の川も、今は見る影もありません。

さて、家康の命によって用水が完成すると、その周辺には次々と新田が開発され、水田の面積は拡大しました。農民たちはこの用水から生活用水を得、田畑に水を引いて米作りに励みました。やがて、川崎領や稲毛領の村々は、この用水を中心にまとまり、発展していきました。

一番堀から六番堀

それぞれの村には取水口が設けられ、村内へ水が流れ込むように工夫されていました。宮内村を例に挙げますと、村のやや上流に取水口があり、そこから一番堀から六番堀までの6つの用水路に分かれ、各農家の田んぼへと水が引かれる仕組みになっていました。川崎全体を見ると、まるで網の目のように用水堀が張り巡らされており、それはまさに人体の血管のようです。二ヶ領用水という大動脈から、毛細血管が隅々まで伸びているように、水が田畑へと行き渡り、豊かな実りをもたらしました。二ヶ領用水は、まさにこの地域の農民たちの生活を支える重要な川だったのです。

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